はりねずみ通信
2016.06.24
連続性について
五木ひろしの歌に、「よこはま・たそがれ」というものがある(山口洋子作詞、平尾昌晃作曲、昭和46年)。
よこはま たそがれ
ホテルの小部屋
くちづけ 残り香 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙・・
と続くが、ここまでは全部「単語」である。本来この中に物語は含まれないはずなのだが、この並べられた言葉をみると、(イメージは人それぞれであるかもしれないが)情景が立ち上がる。なぜか。
もうひとつ、不思議な例を挙げると、ピアノという楽器のこと。
ピアノは鍵盤楽器という括(くく)りであるが、構造上「打楽器」と言える。
鍵盤を押すと、槌が弦を叩いて音が鳴る。ぽーん、という音が鳴るが、これは必ず減衰していく。
ところが、ピアノでメロディーが奏でられると、あたかも音が連続しているように聞こえるのである。
「思考の整理学」の著者、外山滋比古さんは、こんなことを書いている。
「ことばは静止しているのに、文章を読むと意味に流れが生じる。なぜだろうか」
彼は「これは物理学の慣性の法則ではないか」と言った。
動いている物体は、それを継続しようとする傾向を持っている。物理のこの現象は、心理にも当てはまるのでは?
そう書いていた。
私はこのような現象を「隙間を埋めたがる脳の性質」ではないかと思っている。
目には盲点がある。目に映るものはすべて見えている、とだれもが思うが、盲点では画像を結ばないはず。
本来は眼前にある風景の一部は欠けているはずなのに、そう見えないのは、脳が画像を補っているからだと言われている。
もっとわかりやすい例でいうと、自分の鼻はいつも視界に入っているはずだが、鼻を意識するひとは(よほど鼻が高い人でない限り)いない。脳が鼻の画像を「消している」のだ。
言いたいことは、目で見るものも、耳で聞くものも、脳が修飾しているということ。
不連続なものを、連続させてしまうのも脳の仕業(しわざ)である。
五木ひろしの歌も、ピアノも、文学も、そうした脳の性質を利用し、心に働きかけているのであろう。
これって、おもしろくないですか?
1件のコメント
確かに、面白いですね。
先生の表現のしかたが、これまた素晴らしい。。
私は、作詞家であり、作家でもあり、銀座のママさんでもある
山口洋子さんに昔とても興味がありました。。
私生活でも、発展的な生き方。文章の中に彼女の秀でた表現の仕方。。
とても・・賢い人なのでしょうね。。
火曜日に予約を取りたいと思っています。
きんの皮膚の状態がよくありません。。
よろしくお願いします。
きなこさん、山口洋子さんのことをあまり知りませんでした。教えていただき、ありがとうございました!
きんちゃん、診てみますね。