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ペットロスについて
パピヨンの庭の会を開いて、いろいろなことに気づかされた。
まず、動物の置かれている状況によって、ペットロスの悲しみの程度が異なるということ。
動物が病気がちで、手がかかる状況であればあるほど、失った悲しみが大きくなる。
こういうことは、もちろん一般化できないが、そういう傾向があることは確かなようだ。
多くの方は、
「自分が最良のことをしてやれただろうか」
と、ご自身を責めることが多いように思う。愛情をかけたことさえ、それが過剰であったのでは、と悩まれる。
私は獣医師としての立場で語るので、ほんとうの意味で共感することができないのかもしれない。
けれど、動物と人間の関係を考えると、こんなふうに思う。
犬や猫などの伴侶動物たちは、人間と暮らすように生まれてきた。
人間と離れては生きていけないものたちである。
すると、かならず人間の生活の影響を受ける。
忙しい家庭で育てられると、日中は一人で過ごさなければならなかったり。
おばあさんとふたり暮らしなら、いつもそばに居ることができても、散歩は少ない。
多頭飼育の家庭では、相性のあまりよくない他の動物と一緒に居なければならない、など。
つまり、彼らの人生は、人間の生活様式に依存している。
別の言い方をすれば、運命共同体、である。
それは不自由なことだろうか。
私はそうは思わない。
かれらは、どんな状態にも適応し、懸命に生きているように思う。
ご飯を食べる、散歩をする、窓から外を見る、風の匂いを嗅ぐ。
人間にとっては些細と思われることにも、喜びを見いだして楽しく過ごす。
そういうことに長けたものたちだと思う。
ただ好きな人と一緒に暮らすことだけで、十分なのではないか。
だから、動物を亡くした人は、悲しまないでほしい。
悲しまれるほど十分愛され、大好きな人と過ごせたのだから。
「ペットロスについて」への7件のフィードバック
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先生の獣医師としてのお言葉に、何回救われたか。コタローが病気の時も、亡くなってからも…いろいろな感情の波が押し寄せてきて、飼い主は、それに押し潰されそうになります。
多分、他の飼い主さんのお話は冷静に聴けるのに、自分の事はダメみたいです。他の方にお話を聴いてもらうって大切な事ですよね!今も、待合の名前を書くとき、クータって書くところをコタローって書きかけたり、無意識でクータにコタローって呼び掛けたり(なぜかクータの方ばかり…)
今回はパピヨンの庭、参加できませんでしたが、次回予定が合えば、是非、参加させて下さい。
クータ、クーリさん、時間が解決すると簡単には言えないのですが、だんだんと落ち着いてくることが多いと皆さん言われていました。
あせらず過ごしていただきたいと思います。次回は是非参加くださいね(^^)
こんばんは。
理性では理解できるし、しているとは思うのです。
ただ、直面した時って、感情が追いつかないのです。
悲しいのを辛いのを受け入れ、泣いて泣いて、何も考えず、心に素直でいることが、死や別れの必然を受け入れることができる方法なのかなって思ったりもします。
私は見送った後、木や花を植えます。
絆を継続したい、そのためかもしれません。
遺骨も全て置いてます。
いつか私が同じ場所に逝った時、海に散骨して欲しいと遺言してます。
後のことは決まっているのに失う事が怖くて仕方ない。
困ったものです。
コバシさん、私たちがいろいろなことを言っても、理屈ではわかっても気持ちが受け入れられないことがあると思います。
思い出せるものをそばに置いていることもいいと、先日の集まりで知りました。
でもね、先生。
天の時もライの時も、先生がかけてくださった、
「天ちゃん(ライちゃん)本当によく頑張ったと思いますよ。」
って言葉、とても嬉しかったし救われたのを覚えています。
「獣医師の先生に合格もらえるほど頑張ったんだなぁ」って。
先生こんばんは!
動物も家族、子供なんです。
多頭飼いでも一匹一匹違うんですよね。
私いつも思うのです、あんこときんと私を足して
三で割る、それが命の時間だったらいいのにな、って。
きなこが亡くなってしまったときも、気が変になるのかなと
思っていました。でも、今があるって事は人間って案外強いなと思います。
私は、あまりにも動物に依存しているのかもしれません。
あんこやきんがいなくなってしまったら・・考えるだけで怖くてたまりません。。自分が怖いです。。。
でも、動物達と暮らせる・・こんなに幸せはどこを探してもありませんよね!
きなこさん、先のことを心配して今が楽しめないと動物たちにとってもよくないですよね。
今日一日の幸せを!